市川三郷町に伝わる「神明の花火」の歴史
甲州市川の花火は、武田氏時代の「のろし」に始まるといわれています。
武田氏滅亡後、徳川家康は信玄のすぐれた技術を積極的に取り入れました。
市川の花火師たちも徳川御三家に仕え、花火づくりに専念したといわれています。
また「神明の花火」は、同じ地場産業である和紙に深いつながりがあります。
平安時代、まだ山梨が甲斐の国だったころ……
源義清(甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の子)が
甲斐の「平塩の岡」(現在の市川三郷町内)に赴任し、館をかまえました。
その時に京都から紙漉き名人の甚左衛門が従ってやってきました。
甚左衛門は、美しい紙を漉く技術を市川の地に伝え、
人々の暮らしを豊かにしてくれました。
後になり、和紙に対する功績を称え、
甚左衛門を神明社(紙の神様をまつる社)にまつりました。
そして命日にあたる7月20日を神明社の祭りの日と定め、
盛大に花火を打ち上げました。
八乙女神明宮(現・神明社)
これが「神明の花火」のはじまりと言われています。
神明の花火は江戸時代の元禄・享保(1688~1736年)頃から、いっそう盛んになり
日本三大花火の一つとされ、賑わいました。
「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」とうたわれ、
恋人たちの出会いの場としても親しまれてきたそうです。
市川で一緒に花火を見ると幸せになれると言い伝えられています。
いつしか神明の花火の歴史も途絶えてしましましたが、
時を超え平成元年8月7日、
神明の花火は山梨県下で最大の規模をほこり
現在によみがえりました。
2万発の大輪の花が夜空を彩り、
受け継がれてきた伝統が雄大に輝き続けています。